ハイデッガー『落ち着き ~原子力時代における人間の土着性~』(1959年発行) ノブゴロド訳 ※未完(最終更新2014.1.7)

著者:Martin Heidegger

原題:Gelassenheit ~Bodenständigkeit im Atomzeitalter~

 

※訳者まえがき:この論説はハイデッガーが1955年10月30日にメスキルヒで行った、ロマン派作曲家コンラディン・クロイツァーの誕生175周年記念公開講演である。1959年に単行本として’’Gelassenheit’’という表題で出版された。翻訳のテキストには1962年に’’Gelassenheit ~Zum Atomzeitalter~’’という表題で出版された日本版のテキストを使用しているが、成立の事情を考慮し原題を付すことにした。

 

 

 

 

 私が、私の故郷の町で皆さんに言うことができる最初の言葉は、ただ感謝の言葉だけでありましょう。

 私は故郷が一つの長い道程の上で私に持たせてくれたもののすべてに感謝します。私は、これらのはなむけの中身は何であろうかということを、コンラディン・クロイツァーの100回目の命日である1949年に’’Der Feldweg(野の道)’’という表題で出版された記念文集の中で数ページにわたって説明することを試みました。私はシーレ市長の温かい歓迎に感謝します。私はそしてまた、本日の式典の際に記念講演を行って欲しいという素晴らしい要請に感謝します。

          尊敬する 式典の主催者の皆さん!

          親愛なる 故郷の皆さん!

 私たちは私たちの同郷人、つまり作曲家コンラディン・クロイツァーのための記念式典に集められています。私たちが作品を生み出すことを天職にしているような人々の中の一人を祝わなければならないならば、そのときは何よりもまず、その作品を尊敬することが肝心です。作曲家の場合には、その作品は音によってもたらされます。

 この時間にはコンラディン・クロイツァーの作品の中から、歌曲、合唱曲、オペラ、室内楽が演奏されることになっています。色々な響きの中に、芸術家自身がいるのです。なぜならば、指揮者が作品の中に居合わせることこそ唯一正真正銘の芸術家の現れ方なのです。指揮者が偉大であればあるほど、作品の背後に彼の人柄がきれいさっぱりかき消えるのです。

 今日の式典に参加している演奏者と歌手は、この時間にコンラディンの作品が私たちへ響いてくることを保証します。

 しかし祝典はそれによってだけで追悼式でしょうか? 私たちがある人のことを考えることが追悼式の一部ではあるけれども、しかし、私たちは作曲家に向けた追悼式で何を考え何を言うべきなのでしょうか? 音楽は音の単なる鳴り響きによってのみでしか特徴づけられないのでしょうか? だから日常の言語、つまり言葉による語りを必要としないのだと人々は言います。しかしながらまだ問題が残っています。すなわち歌われ、演奏されることによって既に式典に際して私たちが考えるような式典と言えるのかということです。おそらく、そうではありません。それゆえ主催者の皆さんはプログラムに記念講演を設けたのです。式典は私たちが祝われた作曲家と彼の作品を考えることについて私たちを助けなければなりません。私たちが改めてコンラディン・クロイツァーの人生を語り、彼の作品を数え上げて描写するやいなや、このような記憶は生き続けます。私たちはそのような物語を通して様々な喜びや苦しみ、そして示唆に富んでいて模範的なことを知ることができるのです。しかし基本的には私たちはこのような講演によっておしゃべりをし合っているだけです。私たちがそのような物語に耳を傾ける際に、考えるということ、すなわち何かを、つまり私たち一人一人の直接にそして絶え間ない本質に関わることを、深く考える必要は全くないのです。それゆえに記念講演は私たちが式典の際に考えることのその代りさえも保証していません。

 うぬぼれないようにしましょう。私たちは皆、まさにそのような人々、つまり職業的理由から考える人々(訳注:所謂「哲学教師」や「評論家」を皮肉った表現)も含めて、しばしばうんざりするほど思想の貧困(訳注:原文では’’gedanken-arm’’)に陥ります。私たちはあまりにも簡単に、物事を考えることを忘れる(訳注:原文では’’gedanken-los’’)のです。物事を考えることを忘れるということは恐ろしい客人であり、今日の世界の至る所で出没します。なぜならば今日、人間は皆何もかも知識への早くて安価な方法を選択し、そして同じ瞬間に同じようにそれを忘れているからです。そのように一つのイベントがもう一つのイベントを追い立てます。追悼式典は徐々に考えや思いが貧しくなります。式典と思慮のない状態は互いに気を一にします。

 しかし私たちが無思慮である一方、私たちは自分の考える能力を放棄しているわけではありません。私たちはそれどころか絶対に、その能力を必要としています。もちろん変わった方法、だからつまり、無思想の中で思考可能性を思想の貧しさの中へ放っておくようにすることを必要とするのです。休閑地はこのような場合だけ、たとえば農地のような、成長のための土壌の中にある場合だけ休閑地になり得ます。高速道路のようなものは、その上では何も育ちませんし、また休閑地ではあり得ません。私たちは聞いている者であるので、それゆえに耳が聞こえなくなり得ます。私たちは若かったので、ただそれゆえに古くもなり得ます。そのように、私たちは次のことのゆえにのみ、つまり、人間はその存在の根本において思考のための能力、すなわち《精神と悟性(訳注:原文では’’Geist und Verstand’’)》を所有するからこそ、そして、考えるために宿命づけられていることのゆえにのみ、無思想になることがあり得るのです。私たちが知っていて、または知っていないで所有していること、ただそれだけを、よく言われているように、私たちは失うかもしれませんし無くすかもしれません。

 増大する思想の貧困はあるプロセスに原因があります。それは現代の人間の最も奥部が食い尽くすこと、つまり現代の人間が思考の前から逃亡していることです。この思考からの逃亡は思想の貧困の理由です。人間は思考の前でのこれらの逃亡を、認識しようとするわけでもなければ認めようとするわけでもありません。それどころか現代の人間は思考の前でのこれらの逃亡をはっきりと否認するでしょう。彼はその反対のことを主張するでしょう。そして彼は十分な権利を持ってこう言うでしょう、今日と同じくらい幅広く設計され、様々に探求され、情熱的に研究されてきた時代はないと。確かに。この明晰な頭脳と熟慮における浪費は、それはそれで大きな役に立ちます。そのような思考は避けられないままです。しかし――思考が独特な性質のものであることが残されたままです。

 もしも私たちが計画し、研究し、そして企業を設立して常に現状を考慮に入れるならば、独特な思考はその中に存在します。私たちは計算された意図目的からある目的へと向けて勘定します。私たちは前もって定められた成果に向けて計算します。この計算は、あらゆる計画し研究する思考の特徴をよく表しています。もし仮に電子計算機や人工頭脳が作動しなくとも、そのような思考は計量的思考であり続けます。計量的思考は計算します。計量的思考は絶え間なく新しい可能性を、常により有望な、そして同時により安っぽい可能性を計算します。計量的思考はチャンス(機会)から次のチャンスへと駆り立てます。計量的思考は決して静止しないし、沈思・省察へは至りません。計量的思考は瞑想的な思考ではなく、すべてあるものの内に支配している意味を思案する思考でもない、何の思考でもありません。

 そうすると、2種類の思考が存在します。両方はその時々にそれぞれのあり方で正当かつ必要です。2種類の思考というのはつまり、計量的思考と瞑想的な思考(訳注:以下、「瞑想的な思考」「熟考」は省察と訳しても良いだろう)です。

 しかし、私たちがこの熟考を考えている、と言うとき、今日の人間は思考から逃亡しているのです。しかし、と、そのように人は答えます。単なる熟考はまさに思いがけず現実の上に漂っています。それは基盤を失います。それは現在の事業の克服には何の役にも立ちません。それは実践という実行のためには何ももたらさないのです。

 そして最後に人はこう言います。単なる熟考、つまりダラダラと熟考するのは一般常識にとっては気取っていると。この言い訳は一つだけ正確なことがあります。瞑想的な思考はそれ自体から計量的な思考ほどには少しも利をもたらさないということです。瞑想的な思考は時としてより高次の努力を要します。それはより長い修練を必要とします。それは他のどの手仕事よりもさらに鋭敏な細心の注意を必要とします。そしてそれはまた農夫のように種子が芽を出して成熟するかどうかを待つこともできるはずです。

 他方では誰もが熟考の方法を自分自身のやり方と自分自身の限界の中に辿ることができます。なぜでしょうか? 人間は考え思案する存在であるからです。だから私たちは決して熟考から《飛躍》することを必要としないのです。私たちが最も身近な物に寄り添い、そして最もわかりやすい方法でよく考えるならば、それは十分であります。