9月1日(火)
もう8月が終わってしまったことに愕然とする。9月はさらに早く過ぎ去るだろう。
知覧茶を淹れて飲み、ブルガリアヨーグルトを食べて出勤。ロッカールームに入ると、すべて使用されていたはずの、私と同じ列のロッカーのうち2つに名札が貼られていないことに気づく。おそるおそる取っ手に手をかけてみる。鍵はかかっていない。開けてみると中身は空っぽである。
「よっす橋元。グラセフのPV見た?」
私と同い年で同学年、俗に言う「タメ」である児嶋(こじま)が通りかかる。かつては他にも私とタメである社員が複数人いたのだが、全員が退職してしまった。
「見たけど、どうせやることは毎回同じ、ひたすらお使いゲーだろ。で、最後は銀行強盗。まあ、あれは現代のアメリカとは何かっていう思想をゲーム上に構築してプレイヤーに体験させるってもので……って、そんなことより、ここのロッカーの2人、どうした?」
「8月いっぱいで辞めたってよ」
「なんで? 理由は?」
「ひとりはこの前入ったばっかの人で『こんなに報われない仕事だとは思わなかった』ってさ」
「なあ、そんな理由で辞められるってマジで羨ましいよな。まあ結構歳いってたし、たんまり貯えがあるんだろうな。てかよ、逆に、報われる仕事って、なんだ?」
「さあ……、何かものを作る仕事とか?」
「俺はどんな仕事だろうが、『報われた』なんて思った時点で嘘だと思うけどな。で、もうひとりは?」
「うつ病で休職してた保谷さん。奥さんから『これ以上夫を苦しめないでください!』って電話が来て、そのまま奥さんが退職の手続きしたってよ」
保谷の話なら聞いていた。彼らは30代で、夫婦の間に子はいない。その理由は本人が語っていた。妻は夫を溺愛しており、もし子どもが生まれれば、夫の愛情が子どもに向かってしまう、そうなったら嫉妬心から子どもを殺してしまうかもしれない、彼女は常々そう言っていたらしい。だから夫婦の営みはほぼ毎日ありながら、コンドームと低用量ピルの合わせ技で避妊を徹底していたという。今回の退職に関しても、あなたが今後ずっと働けなくてもわたしが働いて稼ぐから、あなたは家にいればいい、お願いだからあなたを苦しめるそんな会社辞めて、と説得したらしい。事実は小説よりも奇なり。つくづく、世の中は不平等で不条理である。こんなにも苦しんでいるのに、なぜ私にはそのような女性が現れないのか? 私だったら「え?w まじ?w 大丈夫そw? じゃあ、あとはよろしくうううぅwwww」と即答して家に引きこもってみせる。
「おいマジかよふざけんなよっつって! 羨ましすぎるって! 人生あがりかよっつって! それにしても、まーた休み取れなくなるのか……。人員補充は?」
「あるわけねえだろ、そんなもん」
「あのさあ、俺たちは些細なことでも、すぐに、やれ顛末書だ始末書だって話になるけどさあ、ここの上長とか本社のお偉いさん方は、こんなに人がすぐ辞めまくって、新しい人も全然採用できずに現場を疲弊させ続けてることに対して何か責任は取らないわけ? これそのうちマジで事業そのものが成り立たなくなるだろ。株主は経営陣に対して何も言わねえのかな。まあこんなクソ会社の株買ってる時点でクソ馬鹿だからしょうがねえか。あーあ、この会社のステークホルダー全員死んで地獄に落ちねえかな、俺以外」
「いまの話、畦(あぜ)さんに聞かせてやれよ、手を叩いて喜ぶぞきっと。あ、そうだ橋元、俺、IMAXオンリー先行上映で『オデュッセイア』観てきたんだけど、マジでヤバいから観たほうがいいよ。俺は神を、ゼウスの存在を本当に感じた。橋元、絶対好きだと思う」
最後の一言を発する際、児嶋が一瞬、含みのあるニヤついた笑みを浮かべたのを私は見逃さなかった。
「お前いま笑ったよな……? 馬鹿にしてんのか? え、おい?」
「お前絶対好きじゃん、ああいうの。わかりやす過ぎるって」
「俺はそんなに単純な人間じゃねえ! それに、言われなくても観に行くっての!」
賃労働を終え帰宅後、クリストファー・ノーラン最新作『オデュッセイア』を調べてみると、上映時間は3時間弱。『オッペンハイマー』の時も思ったが、長過ぎて途中でトイレ行きたくなる問題がある。しかし、今作は史上初めて、ノーランのかねてよりの望みでもあった全編IMAXフィルムカメラで撮影された超大作らしい。IMAXで鑑賞することを心に誓いつつ就寝。
9月6日(日)
朝から猛烈な雨が続く。予報によるとしばらく雨の日が続くらしい。諦めて体を起こし、済まさねばならない所用のため、昼過ぎに電車に乗って池袋へ向かう。
大学時代の先輩に教えてもらった、百貨店地下の書店を通り抜ける方法でジュンク堂へ行く。バーバラ・レオニ・ピカード『オデュッセイア物語』『イーリアス物語』(高杉一郎訳、岩波少年文庫)を映画の予習のために購入。大学生の頃買って読んだ岩波文庫のオデュッセイアを持ってはいるのだが、字も訳も古く、原典通り時系列もバラバラで読みにくいことこの上ないため。
他に、福永武彦『古事記物語』(岩波少年文庫)、バタイユ『エロティシズム』(酒井健訳、ちくま文庫)、アレント『人間の条件』(志水速雄訳、ちくま文庫)、阿部幸大『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』『まったく新しいテクスト分析の教科書』(光文社)、猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』(中公文庫)、辻田真佐憲『あの戦争は何だったのか』(講談社現代新書)を購入。
来た道を戻り、百貨店にて、全国百貨店共通商品券を買い求む。これは、近々定年を迎える元テレビ番組・映像制作会社ディレクターの篠原さんのお祝いの品。労働者互助会の会計係としての任である。
案内の店員は丁寧であったが、窓口担当の中年女性はぞんざいな態度で極めて無礼。軽き怒りを覚えるが、私は仏を目指す者、柔和に、下手(したて)に応ず。
「熨斗(のし)の表書きはどうなさいます?」
「定年退職のお祝いなんですが、雇用延長でそのまま勤務する場合、どうなんでしょう? 御祝か御礼──」
「御祝でいいんじゃないですか?」
まだ話してる途中だろうが最後まで聞けい! 食い気味に答えるんじゃねえ! 「いいんじゃないですか?」って、なんで投げやりなんだおい! 友達かてめえは!
「では御祝で、贈答用の箱に入れて内熨斗でお願いします」
「お持ち帰りは封筒にお入れするだけでよろしいですか?」
よろしくねえだろ! あんた今日出勤するとき雨に降られなかったのか? 天気予報見てねえのか? 濡れちまうだろうが!
「有料でも構いませんからビニール袋に入れてください。外はすごい雨でして……」
めんどくさそうにビニール袋に包む店員。品を受け取って席を立つ。
「ありがとうございました(ヒゲヅラの小汚い中年男、どうせ独身だろう。早く帰れよ気色悪い)」
「ありがとうございました(接客業向いてねえよ、辞めちまえクソババア)」
気を取り直して、地下の総菜売り場にて「かつ丼」を購入したのち、電車に乗って帰宅。入浴後、キリンラガービールを「かつ丼」で飲む。枕元のバンカーズランプをつけて購入した本をパラパラ読んでいるうちに寝る。
9月11日(金)
午前、起床。一本満足バー亜鉛・マカ(ベイクドチェダーチーズ味)と知覧茶。始業時間よりかなり早く出社する。労働者互助会の会費余剰金を返金する際の準備のため。
空いている会議室を借り、次期会計係の南原さんと一緒に総額40万円近いカネを会員別に封筒に入れる作業を行なう。無論、手弁当である。
南原さんは役職未経験のため、来期も私が全面的にサポートすることになっている。
「すみませんね橋元さん。勝手がわからなくて、いろいろ教えてください」
「お気になさらず、何でも聞いてください。気をつけることは、収入や支出があったらすぐに帳簿につけておくことくらいですかね。後回しにしちゃうとワケわかんなくなっちゃうんで」
名簿と照合しながらカネを封筒に入れ、金額と氏名を書いていく。
「失礼ですが、橋元さんって今おいくつなんですか?」
「34歳です」
「結婚されてるんですか?」
「いえ、独り身が板についちゃって、もう他の誰かと一緒に暮らすなんて想像もできないですね。それ以前に、ぼくは女性から徹底的に嫌われる性格と容姿と生活態度を持っているので」
「いや、偉そうなこと言って申し訳ないんですが、独身のほうが幸せかもしれないですよ。私バツイチなんですけど、前妻はとにかくカネ遣いの荒い女で、勝手に私のカード使われたりして、それは同棲してる時にはわからなかったですよ」
「なる……ほどですね……」
「飼ってた熱帯魚をトイレに流して捨てやがったんですよ? まさかそんなやつだとは思わなかった。子どもがいなくて良かったです本当に」
「な……るほ……どですね……」
封入作業を終え、駄賃としてジュース代が支給さる。カネは金庫に入れて厳重に保管しておく。
休憩室に入ると、近々定年を迎える元テレビ番組・映像制作会社ディレクターの篠原さんがソファに座ってメルセデスのカタログを読んでいる。
「篠原さんお疲れ様です。ベンツ買うんですか?」
「おお、はしもっちゃん、うん、国産は飽きたから外車でも買おうかと思ってね。はしもっちゃんもどう?」
篠原さんは5000万円程の資金を個別株やオルカン、サテライトとしてビットコインに投資して運用している。
「クルマなんか買ったら破産します。乗らないし要らないし。そもそも乗り物なんて誰かに運転や操縦をさせるものであって、自分で動かすもんじゃないですよ」
「言えてるねえ。でも破産するってことはないだろう? はしもっちゃんは投資家なんだし」
「1円でも投資してれば貧乏だろうと投資家ですからね。ある有名な個人投資家が言ってたんです、1億円あってやっと100万円好きに使って良い、投資家にとってキャッシュは弾薬、弾切れしたらもう戦えないって。それで、どのクルマ買うんですか?」
「サーフボードを積めるクルマがいいんだよね。そうなるとGLEかな。ゲレンデは業界人とか成金がよく乗ってるから好きじゃないんだ」
「サーフボード? 最近ちょこちょこ仕事お休みされてますけどサーフィンしに行ってるんですか?」
「そうそう。天気悪くてほとんど乗れてないけどね。まあ仕事をするのは長くてもあと5年くらいかな。そしたら宮古島に別荘買うよ。行ったり来たりして毎日サーフィンだね」
「はあ……すごいっすねえ……。地元には帰らないんですか? っていうか篠原さん地元どこなんですか?」
「名古屋だけど、親も死んじゃったし、親戚づきあいもないし、もう縁がなくなっちゃったね。長いこと帰ってないなあ。まあ、帰る家もないからね」
「高校を出たあと東京に?」
「あれ、言ってなかったっけ? 日大の芸術学部に入ったのよ。中退しちゃったけど」
「初耳ですよ。ちなみになんですが、テレビ番組・映像制作会社時代の同僚の方々は、今どんな仕事をされてるんですか? それとも、もう仕事はせずに南の島で悠々自適の生活とか?」
「さすがに無理だね。そこらのサラリーマンよりは稼いでたけど、俺たちはあくまで下請けだから。たんまりカネを持ってて安泰なのは局の人間だけだね。個人事業で撮影と編集やってるやつもいるけど、ほとんどは全然畑違いの仕事をしてるよ。清掃のバイトとかタクシー運転手とか、焼き鳥屋の店員とか。起業したやつだと古着屋やったりね。全然儲かってないみたいだけど」
「なかなか厳しいですね……働くのって本当に大変ですからね……」
「はしもっちゃんも、ずいぶんストイックにやってるみたいだけど、やっぱりあれ? FIREを目指してるの?」
「そういうことになるんですかね。働くの向いてないんで。あとは本読んで映画観て創作してって感じですかねえ」
「いいねえ、クリエイティブだねえ。今の調子だったら早いうちに達成できるんじゃないの?」
「そんなに簡単じゃないですよ、こんなクソ安いゴミみたいな給料じゃ。ぼくの全財産はきょうびマンションの頭金にすらならない額です。ぼく、人生で何かが上手くいった例(ためし)がないんですよ。ぬか喜びと絶望を繰り返してるんで、絶対何かとんでもない、心をへし折ってくるようなことが起きる気がしてならないんですよねえ。起きてほしくない時に起きてほしくないことが起きるのが常ですから。たぶんFIREする前に事故か病気で死んでしまうんじゃないですか、苦痛と悔恨と絶望に苛まれながら。って、そんなことはどうでもいいんです、先日篠原さんご所望の定年お祝いの品である商品券を買いに百貨店に行ったんですが、なんか百貨店というより量販店みたいな感じでしたよ。売り場も低層階だったし」
「おお、ありがとね。あそこ、最近家電量販店が経営に参加してるらしいから、それもあるんじゃないかな。百貨店の贈答品を扱ってるフロアって大体上のほうの階にあるんだけどね。この国は貧しくなったよね。銀座にユニクロとかダイソーがあるなんて考えられないよ」
そういえば地下の書店も閉店してしまうことをツイッターで知った。
賃労働を終え帰宅。いつもより早く起床したため強い眠気に襲われ、飲酒せずに就寝。
9月12日(土)
昼、日本料理店にて、労働者互助会期末定例会・引き継ぎ式兼、近々定年を迎える元テレビ番組・映像制作会社ディレクターの篠原さん定年お祝いの会が開催される。出席者は13名。ベテラン社員からの、「祝いの席なんだから、安居酒屋じゃなくてもっと良い店にしろ。若いやつらの分は出すから」との注文によって決まった店である。幹事は先輩中堅社員の一人。
仲居の案内で一同座敷に通される。一人1万5000円、飲み放題(+2000円)付きの会席料理。最初の飲み物は生ビールをピッチャーで頼む。飲むペースが速すぎて、ジョッキでは交換が追いつかないためである。まずは前菜(酒肴)盛り合わせが各人の前に提供される。
乾杯に先立って会長より挨拶ののち、「じゃあ会費余剰金を返金します。会計係の橋元君、よろしく」とお鉢が回ってくる。手提げの金庫を開けると、一同から喚声があがる。
「元々は俺のカネだぞ! 早く返せ!」
「どうせ返すなら最初から取るなよ!」
脇をド突かれながら配って回る。
「お名前と金額が合っているかこの場で確認してください!」
「相違なし!」
「たったこれだけか? ゴルフクラブ買おうと思ってたのによ」
「今期は定年者祝い、弔慰金、見舞金等の支出が多く例年より返金額が少なくなってます!」
「それは仕方ない。そのための互助会なんだからお互い様です。会計係は面倒だし大変な役目だ、文句があるやつは自分で会計係に立候補しろ! 橋元君ありがとう、1年間お疲れ様でした! はい拍手!」
散発的に拍手が湧き起こる。
「では次、篠原さんが定年を迎えられます。篠原さん、一言ご挨拶をお願いします」
「ちょっと待ってください! まだ飲み物が来てませんよ!」
そう、一向に最初の飲み物(生ビール)が来ないのである。
「居酒屋じゃないとはいえ遅すぎないか?」
「もう20分経ったぞ」
一同に苛立ちが募る。
「おい、ゴルァ! いつになったらビール来(く)んだよ!」
「さすがにおかしいな。悪い橋元、確認してきてくれ」
出口に近い下座に座っている私に白羽の矢が立つ。
「行ってきます。原口、手伝ってくれ」
念のため後輩社員の原口を借りる。座敷を出て渡り廊下を歩き、調理場があると思われる方向へ向かう。
「あ、橋元さん、ここじゃないですか?」
原口が調理場を発見、おそるおそる中を覗いてみると、怒号が飛び交うなかを仲居たちが走り回っており、ただならぬ雰囲気が漂っている。
「あの……すみません……ビールは……」
「ああお客様ァ! 大変申し訳ございません! サーバーが壊れてしまって、炭酸が抜けたビールしかお出しできない状況です……」
「なんですって? 最初の一杯はビールじゃないと気が済まないどころか暴れ出す人たちなんですよ。瓶ビールはないんですか?」
「ございますが、飲み放題は生ビールのみのご提供となっておりまして……」
「いや、それは困ります。最初の5、6本だけでいいので出してもらえませんか?」
「かしこまりました……」
「あと、焼酎と氷と、割り材としてウーロン茶と緑茶準備してください。アルコールが入ってりゃ何でもいいんだ。どうせすぐ酔って前後不覚になっちまうんだから。ぼくたちも一緒に運びますから」
中居と原口と共に瓶ビールや焼酎を座敷に運び込む。
「お、きたきた!」
「待ちくたびれたぞ! さっさと始めようや!」
各々奪い合うようにして瓶ビールを手に取りコップに注ぎ合う。
「全員行き渡ったかな? では改めて篠原さん、一言ご挨拶を」
篠原さんはコップを手にその場に起立する。
「まず、こんなにたくさんの方にお集まりいただいて、嬉しく思います。ありがとうございます。まったくの異業種からの転職で、最初はやっていけるか不安で心配だったんですが、とても風通しの良い職場で、みなさんひとりひとり個性的でおもしろくて、毎日楽しくて、すぐに馴染むことができました。少なくとも5年、あと5年は働きたいと思いますので、みなさん、何卒お手柔らかに、今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
「風通しがいい? どこが? 個性的? クセがあるの間違いだろ。物は言いようだな」
「5年と言わず10年15年いてくださいよ!」
「あ、忘れてた。橋元君、お祝いの品を贈呈してください」
「はい、互助会からお祝いとして商品券2万円分贈呈します!」
手提げの金庫から商品券を取り出して手渡す。
「いいなあ、何買うんですか?」
「いやあ、嫁に全部渡すんで、デパ地下の総菜とかに使われるんじゃないですかねえ」
「さあ、みなさんお手元に飲み物は来ましたね? 今日は楽しい会にしましょう! こんなこと言っても無駄だと思いますが、くれぐれも粗相のないように、常識的な声量と振る舞いをお願いしますよ」
「あんたに言われたくない!」
「いの一番に手当たり次第絡みだして物をぶっ壊す男が何言ってるんだ!」
「それではみなさんのご健勝を祈願して、乾杯!」
「乾杯!」
瓶ビールは忽ち空いてしまう。
「一応生ビールをお持ちしました……」
仲居がピッチャーに注がれたビールを持ってくる。
「おい何だよこれ、こんなもの飲めるか!」
試しに口をつけてみると、炭酸が完全に抜けている。たしかに飲めたものではない。アメリカの映画を観ていると、まずいビールや安物のビールを「piss」と表現する描写があるが、言い得て妙である。
酒好きの労働者たちを気持ち良く酔わせるため、後輩社員らと量産した濃いめの焼酎割りを流通させる。
料理は胡瓜と茗荷のたたき、鮪と鯛の刺身、茄子の鴨肉そぼろ餡かけ、和牛ステーキ、茶碗蒸し、鮨、自家製赤みそ味噌汁、アイスクリーム。
正直なところ、おいしくない。量も盛り付けも味も貧相で安っぽい。一同も同じ感想を口にする。
「値段に見合ってない」
「チェーンの居酒屋で食べたほうがよっぽどうまい」
「有名な店なのに残念だなあ」
飲み会恒例、後半になるとみんな席を移動しまくって滅茶苦茶になり、誰が手をつけた料理なのか、誰が使っていた箸や皿やグラスなのかわからなくなる。
「なあ、ちょっと聞いたんだけど、橋元って法政出てんだって?」
先輩社員の青田さんが話しかけてくる。
「ええ、まあ、はい……」
「お前、地元こっちじゃないよな? 一般入試受けて合格したのか、すごいな。俺の息子、法政落ちちゃってなあ。残念だよ。去年の夏に、市ヶ谷の、オープンキャンパス? っていうのか? あれに行って、すごく気に入ったみたいで、頑張って目指してたんだけど、だめだったよ。結局他の大学に行ってるけど」
「今の大学入試ってぼくの頃とは比較にならないくらい激戦らしいですからね……。嫌味に聞こえたら申し訳ないんですが、どの大学に行くかより、そこで何をしてどう過ごすかのほうが余程大事だと思いますよ。息子さんに伝えてほしいのは、勉強はやってあたり前、加えて運動部に入れ、異性と誠実な関わりを持て、そして就活に死ぬ気で取り組めってことですかね。就活は大学の公務員志望者コースや予備校に入ったほうがいいですね。絶対公務員になるべきです。役所に勤めなくてはなりません。それ以外のことは考えてはいけない。それが真っ当な堅気の人間の正しい生き方であり、幸福な人生です。もしですよ、息子さんがこの会社に入りたいって言ったら、青田さんどうします?」
「絶対許さねえよ。学費返せって言うよ」
「そうですよね? ぼくもまったく同じことを親父に言われましたよ。でも今なら親父の言ってることよくわかります。仮にぼくに息子がいたとして、息子がこの会社で働きたいって言ったら、逮捕されようが知ったこっちゃない、ボコボコにブン殴ってやりますね。阿部慎之助なんてかわいいもんだってくらいにね」
その後、誰々の息子は現役で国立大の医学部に受かった、誰々の娘は都庁の採用試験に受かったなど、トンビが鷹を産むというのは本当だったという話で盛り上がる。
誰かの声量が大きくなると、互いの話が聞こえなくなるから全員の声が大きくなってうるさくなる。そんなさなかに、料理長が挨拶にやって来る。
「はい、静かに! 全員注目!」
「本日はご来店いただきまして誠にありがとうございます。ビールがお出しできず、申し訳ございませんでした。お料理はいかがでしたでしょうか?」
「おいしかったでーす!」
全員が空元気で絶叫する。その後、一本締めで会は終了。会計後、料理長と仲居に見送られながら店を出る。
「物足りねえ。二軒目行くぞ! 飲み直しだ、オルグだ!」
「橋元、もちろん来るよな?」
「すみません、今日のところはお暇させていただきます……明日、映画を観に行くんです……」
「……は? 映画だと?」
「いいねえ、はしもっちゃん、何を観るの?」
「『オデュッセイア』ですよ……クリストファー・ノーラン最新作の……」
「俺も観ようと思ってたんだよ! 全編IMAXフィルムで撮影されたらしいねえ。たしかに、二日酔いで観て良い映画じゃないね」
「おい! 逃げんのか!?」
「……脱兎ォ!」
十種影法術の掌印を繰り出して全力疾走し、その場を離脱、逃走を図る。
しばらく走ったところで後方を振り返る。追っ手は来ない。
帰路、スーパーに寄って買い物。帰宅後、入浴。軽く飲酒したのち就寝。
9月13日(日)
夜、映画館にて、クリストファー・ノーラン監督最新作『オデュッセイア』をIMAXで鑑賞す。
まずは売店にてパンフレットを買い求む。

物語の原典が’’今’’息を吹き返す。
2800年の時を超え、語り継がれてきた全ての物語の原点、「オデュッセイア」
映画史上初となる全編IMAX撮影によるかつてない映画体験。
「生きて還る。」
観るのではない。
あなたは、オデュッセウスの旅路を共に生きる者となる。
映画の可能性を究極まで押し広げた、世紀の映像叙事詩が幕を開ける。
イントロダクションを読んだだけで100億点である。
上映開始、マット・デイモン演じるオデュッセウスと共に絶叫、クライマックスは声を上げて号泣す。
エンドロール後、場内に照明が戻ってもしばらく動けず茫然とする。
前作『オッペンハイマー』からなぜ今オデュッセイアなのか? プロメテウスが人類に火を与え、オデュッセウスの智略によってゼウスの掟が破られて、誰も互いを信頼できず、もうこの連鎖は止められない、そして現代に至るまで人類は今なお殺し合ってるけど、さあ俺たちこれからどうすんの、というメッセージを受け取った。
「オデュッセイア」は、2800年にわたり語り継がれてきた物語です。故郷への思い、家族への愛、喪失や争いの痛み、そして本当に大切なものは何かという問い。それらを、現代の観客が全身で感じられる映画体験として立ち上げることが、私たちの挑戦でした。壮大な神話の果てにあるのは、いまを生きる私たちにも届く、人間の物語です。観客自身がオデュッセウスの旅を共に生きるような映画にしたい。
ノーラン監督のコメントである。素晴らしい。
フラフラと映画館を出て帰路に就く。帰還せねばならない。道中、キッチンオリジンの明かりを発見す。吸い寄せられるように入店。
「大丈夫だ、敵ではない。乱暴はしない。イタケーに帰る途中なのだ。食料を求めている」
と心の中でつぶやく。割引された「のり弁」を購入。
帰宅。王の帰還である。入浴したのち、パンフレットを読みながら購入した「のり弁」を食べ、フロンテラ・カベルネを飲む。ゼウスの掟に従って自らをもてなす!
就寝。王の就寝である。「しかし、妻は? ペーネロペーはどこにいるのだ!」と絶叫するも独り。
9月15日(火)
一年間の労働者互助会会計係の任期を終える。「簡単でいいから会計報告書を作って掲示してくれ」との要請があり、作成をGeminiに丸投げすることにする。
入力した内容は厳重に保護されるとのことだが信用できないため、個人情報は伏せ、帳簿を参照しつつ収入と支出の金額だけを打ち込んでいく。PDFで出力された会計報告書は、文言にやや不自然な点があるものの、署名押印欄まで備えたなかなかの出来栄え。何点か修正してレイアウトを整える。近所のコンビニで印刷したものを掲示しておく。
「これお前が作ったの? 上手いもんだな」
「作ったのはAIです。こんなしょうもない雑務は丸投げです。余った時間は自分の本業のために使います」
「俺も使わせてもらおう。たしかに時間の無駄だよな」
というようなやり取りを何人かとする。
休憩時間、社食にてカツレツ定食を食べていると、特徴的な甲高い笑い声がこだまする。先輩社員の畦(あぜ)さんである。
「アヒャヒャヒャヒャヒャーッ! さすが橋元クン! ろくに仕事しない働くことが大嫌いな怠け者のクズに限ってメシだけはちゃんと食べるんだよね! ヒャッ!」
「ええ、ぼくはみなさんと違って常に頭を使っている高等な知的生命体なのでね。エネルギー補給が必要なんですよ」
「ヒャヒャヒャッヒャヒャヒャヒャーッ! いつも口を半開きにしてボーっとしながらケータイ触ってるけど、そのためにそんなにエネルギーが必要かい? ヒャーッ!」
畦さんがホット缶コーヒー(ボス・ブラック無糖)をくれる。ありがたく貰う。
賃労働を終え帰宅。激しい疲労を感ず。
9月20日(日)
13年ぶりにツイキャス配信を決行す。Amazonベーシックマイクを使用。存外におもしろい。これからは誰も聞いていなくともスペース配信などを垂れ流すやもしれない。
9月30日(水)
夜、練馬の格安ボロアパートの一室、万年床煎餅布団の上にあぐらをかいて座り、頭を抱えている。その男は18歳で故郷を離れこの地にやってきた。あと4年で20年の歳月が経つことになる。
20年、生まれたばかりの赤子が成人して、酒を飲み煙草を吸い、公営ギャンブルにカネを賭けることが許されるようになるほどの年月だ。
男は考える。そもそも自分は都会に出て大学なんぞに行く必要のある人間ではなかったのだと。故郷で土と戯れながら芋や茶を育て、魚を釣り、穴熊を狩って生活するほうが良かったのだと。
都会にはこれだけ腐るほど人間がいるのに、男は誰からも愛されず、誰とも融和できず、わかり合えずにいる。だが、彼は良く闘った。何ひとつできなかったし、何も得られなかった。しかし、もう充分だ。あとは生きて還るだけだ。そう、叙事詩の彼も20年の死闘を経て故郷に帰ったのだ。
故郷に英雄ノブッセウスの帰りを待つ者はいない。しかし彼は確信する。海が、大地が、あの火山が──、私を待っている。誰も私の帰郷を阻むことはできない! 神ですらも! Bringing it all. 帆を張れエウリュロコス! 航路を南にとれ! む……? ……なんだこの美しい声は? それにあの艶めかしい肉体は……? セイレーンだ! 誘惑を振りきれ! 肉欲に抗え! 俺たちに女は必要ない! だめだ喰い殺されるゥ! 耳に蝋を詰めろ! 目を覆って塞げ! 櫂を手に取れ! 漕げ! 漕ぐんだ! ついて来い、ぽまいら!
「すべての海をおさめる神ポセイドーンよ。あなたの息子のただひとつの願いを聞きいれて、オデュッセウスとその部下たちが、けっして故郷のイタケーにたどりつけないようにしてください。しかし、彼がかずかずの罪をおかしたにもかかわらず、故郷の岸辺までたどりつけるようにするのが神々の意志でしたならば、どうかオデュッセウスが仲間の者をすべて失って、ただひとり帰っていくようにしてください。そして、家へ帰ってみれば、悲しみが彼を待ちかまえているようにしてください。」
バーバラ・レオニ・ピカード作『ホメーロスのオデュッセイア物語(上)』(高杉一郎訳、岩波少年文庫、2026年4刷)p.34
















































