ドストエフスキー『白痴』(木村浩訳、新潮文庫)私感

※物語の核心に触れる重大なネタバレが存在する。未読者は注意されたい。なお、新潮文庫は背表紙のあらすじにモロに結末のネタバレをぶっ込んでくるため絶対に読んではいけない。

 

 

 ・『白痴』がとてつもなく長くて退屈な小説であると感じる理由

 

長い、この小説はとにかく長い。読み終えるまでに3ヶ月半もかかってしまった。

潮文庫版で上下巻合わせて1405ページもある。『カラマーゾフの兄弟』は上中下巻で1940ページと更に長い。しかしそちらは1ヶ月半で読み終わった。なぜこんなにも長く感じたのか?その原因を列挙してみる。

 

1、事件といった事件があまり起こらない

全く事件が起きないというわけではない。しかし全体を通して貴族や軍人やその取り巻きたちがぐだぐだとおそろしく長い持論を垂れ流すだけである(誠実な読者はそこにイデーを発見するのであろうが)。最後の最後に大事件が起きるものの、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』のような中盤からの怒涛の展開や疾走感はない。

 

2、ナスターシャとアグラーヤが尋常ではない

ナスターシャとアグラーヤの精神と感情は複雑で混乱しており、ムイシュキン公爵に対する愛情もその表現の仕方も屈折している。顔を赤らめながら公爵に愛を伝えたかと思えば次の瞬間には「出ていけ」「こんなばかとは結婚なんてできない」だのと罵倒する始末である。読んでいて不愉快で、イライラしてくる。いや、彼女たちの公爵にたいする愛は、彼女たちの胸の奥深くの限りない優しさに温められた純情極まるものであるのかもしれないし、そうであると信じたい。しかしながらこれは量り知る由もない。私の文学仲間はこれを「ツンデレ」と評していた。

ナスターシャとアグラーヤについてのみ言及したが、他の人物も尋常ではない。そもそもドストエフスキー作品に「まともな」人間なんて出てきたような記憶がないから今更である。

 

3、主人公・ムイシュキン公爵のはっきりしない態度

公爵はナスターシャかアグラーヤか、そのどちらかを決めることができない。一方に愛を伝えて結婚も決まりかと思えば態度を変えてもう一方にも愛を伝えたりする。読んでいて不愉快で、イライラしてくる。ナスターシャに対する愛は愛情というよりも憐憫の情、子を見守る親の様な庇護者としての愛情である。エヴゲーニイ・パーヴルイチは公爵が、ナスターシャは自分自身の行いによって汚れているのではない、上流社会に汚されただけだということを公然と証明できる機会に飛び付いただけだと説明していた。最後は飛び出していったアグラーヤを追わず、気を失って倒れたナスターシャを選択した。これはやはりナスターシャを愛しているというよりも、倒れて怪我をしたり死んでしまっては可哀想だという理由からだろう。アグラーヤに対する愛は一人の女、人間に対する愛情で本物だと思っていたが、エヴゲーニイ・パーヴルイチの言葉を借りれば「いちばん確かなことは、あなたがあの女も、もうひとりの女も決して愛したことがなかったということ」なのだろうか。公爵については改めて後述する必要を感じている。

 

 

・イッポリートの『必要欠くべからざる弁明』について

一匹の蠅でさえ、輝かしい陽光を浴びて自分のいるべき場所をちゃんと心得、この宴ののコーラスの一員であるのに、ぼくひとりだけが除け者なのだ

公爵が後に思い出すこの節が素晴らしい。イッポリートの弁明と自殺に失敗する場面がおもしろかった。

 

 

・結末について

中盤から、このまま公爵とアグラーヤが結婚してめでたく終わるわけがないとは思っていた。私が立てた予想はロゴージンの公爵再襲撃と彼の殺害だったのだがそれは間違いだった。

なぜロゴージンはナスターシャを殺したのか?

殺すことによって永久に自分の女として保存されるから、公爵の元へ逃げた彼女が憎かったから

 ナスターシャ殺害後、ロゴージンと公爵が密かに通夜を営む場面。公爵はライバルとしてでも犯罪者としてでもなく、一人の人間、そして親友としてロゴージンと対話し涙を流す。

 

・白痴の主題についての問題提起

 

ムイシュキン公爵にはドストエフスキーが意図した「無条件に美しい人間」「完全に美しい人間」が形象化されているか》

 

解説で木村浩が、題名であるロシア語のидиотは純粋な病名としての<白痴>や「ばか」「まぬけ」といった意味で日常普通に使われる言葉であり、「無垢な人」というニュアンスはない、作者は登場人物たちに彼を「ばか」と呼ばせることで読者に挑戦していると述べている。

トルストイをして「これはダイヤモンドだ」と言わしめた。

作者自身も生涯この作品を最も愛した。

この結末の為に作品を書いたと言ってもいいと作者自身が書簡で述べている。

 

あまりにも純粋すぎるこの人間を美しいと呼べるか。