私は以前、いや、たった3ヶ月前に、カッコつけて「書いて書いて書きまくってやる」などと大言壮語を披露したのだが、もう書くネタが尽き始めてゐる。(早い)←(爆)。
当然である。何の才能も持たず、おそろしく鈍感で感受性に乏しく、自宅と勤務先を往復するだけの毎日を送る頭の悪い平凡な浅学菲才低学歴低能不細工中年安月給サラリーマン労働者であるこの私が、舌の肥えた読者諸氏を唸らせる名文を連発できようはずもない。いくら高度なポテンシャルを秘めた眠れる藝術家たる私でも無理なものは無理である! 賢明なる読者諸氏にはご賢察のほどを賜りたく重ね重ねお願い申し上げる次第である!
最近は仕事中にもブログに書くネタや執筆中の複数の小説の構成などを考えており、「おい、聞いてんのか!」などと客に言われたりするのだが、「は? 聞いてねえよタコが。俺にはやんなきゃならねえ『仕事』があんだよ、馬鹿野郎!」などと怒鳴り合ったりしているし、労働後は一刻も早く帰宅し読書と執筆に取り組む必要があるため(俺にはもう時間がねえんだよ!)、速攻で帰宅準備をするので、「最近やけに早えなあ、女でもできたのか?」と先輩社員に言われ、「なに、女ですって? くだらないですね! ぼくには他にやらなきゃならないことがあるんですよ!」と軽くあしらってスーパーカブ(110cc)をブッ飛ばして家路に就くのである。こんな肥溜めみてえな所にもう用はねえんだよ! ひ、ひ!
ネタが無いなら日記書けば良くないか? 日記文学は文学の伝統的ジャンルのうちのひとつである。日本文学においては紀貫之『土佐日記』や『蜻蛉日記』『紫式部日記』『更級日記』『とはずがたり』をはじめ、近代では石川啄木『ローマ字日記』や永井荷風『断腸亭日乗』などがある。そして世紀の世界的大文豪、ドストエフスキイは『作家の日記(原題:Дневник писателя)』を残してゐる! (余談だが、私は大学生の時分に法政大学図書館の薄暗い地下書庫で目ん玉をひん剥いて夢中になって『作家の日記』を熟読していたら、側を通りかかった女子学生に「ひっ!」という悲鳴をあげられたことがある!) 私も日記を書けば、これら世界文学の系譜に連なることができるのではあるまいかッ! そして私の死後、私の「文学」を研究する者がこのはてなブログ『ノブゴロド大公国』を発見して「山元しんてつの文学を紐解く貴重な資料である」とし、『謎とき 山元しんてつ』なる本も出版されよう! という妄想を練馬の自宅ボロアパートの万年床煎餅布団の上で楽しみながら西村賢太『一私小説書きの日乗』(角川文庫、2014年)を読む。
八月十七日(水)
十一時起床。入浴。
終日在宅。夕方、スーパーに買い出し。
夜、落着いた心持ちで手紙を三本書く。
深更、缶ビール二本、宝一本。
鶏肉と白菜で水たき。まぐろのお刺身。
最後に、お鍋の残り汁にオリジンの白飯を入れ、卵を落として雑炊にするが、全部は食べきれず。
八月二十三日(火)
十一時起床。入浴。
一日中、苛立ちがおさまらず。
深更、一時過ぎにタクシーを拾って「信濃路」にゆき、飲みながらメモ帳へ、『野生時代』誌連載随筆二回目の下書き。
生ビール一杯、ウーロンハイ七杯、肉野菜炒め、ウインナー揚げ、レバーキムチ、ギョーザ。
最後に味噌ラーメンとライス。四時半帰宅。
九月十一日(日)
十一時起床。入浴。
終日無為。
夜、買淫。
帰路、喜多方ラーメン大盛り。
深更、缶ビール一本、宝一本弱。
セブンイレブンのおでん八個と、唐揚げ弁当にて飲む。
いや、食べ過ぎ、そして飲み過ぎである。焼酎の瓶を一晩で空けてしまうとは。十二月十日の日記には「カクヤスで、宝焼酎『純』の二十五度、七百二十ミリリットル四ケース(四十八本)を注文。来年、一月一杯くらいまでは充分に保ちそうだ。」(p.182)とあるが、そんなにたくさん買っても一ヵ月ちょっとしか持たないのかよ……。「お酒は適量を楽しく飲みたいものだ。」(p.157)とか書いてるのだが、適量とは一体何なのかわからなくなってくる。
自分で米を炊いている様子はなく、オリジンで白飯を買っている。男の不精はこういうものである。
「刺身」ではなく「お刺身」と書くのが萌えポイントである。また、手製のウインナー炒めや手製のベーコンエッグ、手製の肉野菜炒めも多く登場し、こちらも萌えポイントである。
食事や晩酌に関する部分を引用したが、仕事についてももちろん仔細に書かれている。毎日きちんと仕事を終えてから深更に晩酌しており、真面目だなと思ったが、朝っぱらから飲んでしまっては仕事どころではないだろうし、当然か。
日記の中に度々登場する「信濃路」という店はJR山手線鶯谷駅の駅前にある居酒屋兼定食屋みたいな飲食店で、西村は買淫時以外にもわざわざタクシーに乗って訪れている。私も何度か行ったことがある。鶯谷駅近辺の風俗店を利用する客か日雇い労働者と思しき風体の中年男性ばかりが背中を丸めて酒を飲み飯を食っている店で、店内の空気は陰鬱で完全に「終わって」いるのだが、それがなんとも心地良いのである。もう十年以上前のことだが、鶯谷の某風俗店に、現役の専修大学生がいて、ファミレスや夜警のバイトで得たカネを握りしめて、私はその娘に通い詰めたことがある。可愛くて、肌はきめ細かく透き通って、もっちりとしていて柔らかく程良い肉付きで、しかしくびれがあり、また愛想が良くてたまらなかった。シャワーを浴びイソジンでうがいをしたのちには、彼女にヌプクチュと舌をねじ込んだデープキッスをカマすのだが、それも笑顔で受け入れてくれた。彼女はどんどん人気になり、遂にはNo.1嬢の地位を固め、大予約合戦時代に突入したのだが、私は彼女が新人の頃からの常連であったため、「あ、しんてつさんっすね。予約、取っときます」とボーイに優先的に予約を入れてもらえる有様であった。彼女は大学卒業と共に店も卒業し、「就職決まったので、もうこの業界には戻りません。しんてつさんもお元気で」との言葉通り完全に姿を消し、私も時同じくして就職して以降はこの遊びからは卒業したのであった。彼女は今、元気にやっているのだろうか?
私はある人に「こういうことは書くべきではない」と言われたことがある。だが私は言いたい。こういうことを書くのが文学ではないのか! 綺麗でお洒落で都会的で洗練されていて心を弾ませるようなものだけが文学だろうか? 田山花袋の『布団』は文学ではないのか? 若き日のトルストイだって鑑札握りしめて娼館に通ってただろうが。ラスコーリニコフとソーニャだって間違いなく「ヤッて」るだろうが。あそこにアレが入っちゃってるだろうが。へ、へ! 文学を舐めるんじゃねえ。舐めるのは俺のチン(自主規制)だけにしとけや。え? 違う? あ、もうどうでもいいっすね。ブンガクとかゲージュツとか、高尚なものはわかんねえっす、俺。センスないんで。
さて、ここまで書いてきたことは全部嘘である。虚偽である。作り話である。私は作家だから、多分に創作し脚色もするし、そもそもが信頼できない語り手であるからして、事実そのものなど書くわけがなかろう。
だから冗談はこのくらいにして、西村賢太の作品で注目すべきはその文体、語り口調である。たぶん江戸川だったと思うが東京東部で生まれ育った出自と、自分は生粋の東京人、江戸っ子であるという自負と、落語を聞くことで養われた語りは軽やかで小気味良い。西村は「くださった」を「くだすった」と江戸弁で書いており、これが許されるのは生粋の東京人、特に東部の下町近辺の出身者だけだろう。地方出身者がこんな書き方をしたら「粋がってんじゃねえ」ということになろう。軒下の仁義なるものも、関東圏だから様になっているのではあるめえか。ってなもんでえ。
職場にいる東京で生まれ育った人が、方言を羨ましいと言っていたのだが、標準語だって方言の一種であるし、誇るべきである。大学時代、同じクラスに関西出身の者がいて、ずっとコテコテの関西弁で喋っていたのに、一年時の夏季休暇が明けると中途半端な標準語で喋るようになっていて、私が「気持ち悪いからやめろ」と言ったら、「東京で関西弁を話すと、同じ関西出身の人間にすら、うっすら敵視される」と彼は答えた。私が「核が無い、軸が無い、根っこも無い、ブレている、ブレまくっている、弱い、弱すぎるし、むしろダセえだろそれは」とディスったら「お前だって鹿児島出身のくせに標準語喋ってんじゃん」と言われた。ちなみに彼は大して成績も良くないくせに法科大学院に行くなどと言って就職活動を拒否していた。無事に進学できたのか、今どうしているのかは知らん。ブレている、ブレまくっている。馬鹿には馬鹿なりの闘い方というものがあるのではないか。
私が完璧な標準語を話すのには理由がある。鹿児島弁は訛りが強すぎて、標準語と同じ品詞を用いても全く相手に伝わらないからである。法事のために上京してきた親戚一同とタクシーに乗り合わせて道中車内で喋り、目的地について降りる際に運転手の方に「私たちの喋ってる内容、わかりました?」と聞いたら、「あれ、日本の方ですか。私はてっきり皆さん海外の方だと思ってました。話の内容どころか何を言っているのか一言も聞き取れませんでしたよ」と言っていた。共通している単語くらい聞き取れるだろうと思っていたのだが、サッパリだったようだ。
私は完璧な標準語を話すと書いたが、これもやはり嘘だ、盛っている。特に、名詞のイントネーション、抑揚が未だに不完全である。具体例を挙げると「ヤカン(薬缶)」「サバ(鯖)」あたりで、私が言う度に何度も「え?」「なんて?」「もう一回言ってみて?」と嘲笑と共に聞き返されるので、ある種のトラウマになっている。職場に関西や東海地方の出身者がいて、彼らに聞いてみたら彼らは「服」「靴」などの名詞のイントネーションに難儀しており、「これはもう直せない、諦めた」と言っていた。
私はアメリカの、特に第二次世界大戦を題材にした戦争映画やドラマが好きでよく観るのだが、アメリカ東部のニューヨークなどの出身者は「Yank」「Yankee」、大学在学中か卒業していれば「college boy」と呼ばれるし、南部の出身者は大抵「cowboy」と揶揄されており、出身や方言でからかうというのは世界共通か。しかしこれは悪いことばかりではなく、結構ここから話が広がって仲が深まったりすることもあるのである(逆もしかりだが)。
私が最も好きな西村賢太作品は『蠕動で渉れ、汚泥の川を』(KADOKAWA、2016年)で、これは西村が上野だかの下町の洋食屋で働いていた経験を基に書かれている。